ころまろ☆辛口エンタメ塾

毒舌ネットコメンテーターのサブカル話。たまに愛。

【昭和63年カルチャー1】黒岩彰のカルガリー五輪

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※ここは常に30年前の話をするカテゴリイです

 

実質的な昭和ラストイヤー1988年を語っていきます。

 

 

1988年冬春年表

1月1日 ソビエト連邦でペレストロイカ開始
1月5日 六本木ディスコ照明落下事故 
2月13日 カルガリーオリンピック
2月21日 世田谷区の中学校で机「9」文字事件発生
2月28日 サントリーの佐治敬三社長、東北熊襲発言
3月2日 グラミー賞でマイケルジャクソンがパフォーマンス
3月13日 青函トンネル開通
3月17日 東京ドームが完成
3月18日 名古屋妊婦切り裂き殺人事件発生
3月22、23日 ミックジャガーが東京ドームで来日公演
3月24日 上海列車事故で日本人の生徒と教師27名が死亡

 

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という感じです。まあやっぱり色々ありました。

 

カルガリー五輪

そんな中で今日僕が取り上げるのは「カルガリー五輪」であります。まあ平昌五輪目前のこの時期に、わざわざ30年前のオリンピックを振り返っている人間ってのは、実際のカルガリー五輪出場者と僕ぐらいのものでしょう。はい。

僕が五輪オタクなのは一部の人には有名な話なのですが、そんな僕が、こと「冬のオリンピック」というものにおいて一番印象に残っているのが、この1988カルガリーオリンピックなのであります。しかし悲しいかな、そんな僕のカルガリー五輪への思いを受け止めてくれる酔狂な人は、そうはいないものなのです。

時というものは待ってはくれないもので、いつの間にか、あれから30年も経ってしまいました。周囲から『脳味噌HDD』と言われる僕の記憶域も、加齢とともにだいぶ怪しくなってきたのです。そんなわけで、そのすべてが消えてしまう前に・・・カルガリー五輪話のスタートです。

 

ニッカネンのオリンピック

1988年にカナダのカルガリーで行われた冬季五輪は、マッチ・ニッカネン、アルベルト・トンバ(ビットにフラれる)、カタリーナ・ビット、ピルミン・ツルブリッケン…といった大スター選手が満載の大会でありました。ですので、黒岩彰1人しかメダルの可能性が無かった日本をよそに、世界的に大いに盛り上がったオリンピックとなったのでありました。

特に大会の象徴だったのはフンランド「鳥人」マッチ・ニッカネンですね。彼はスキージャンプにおいて、70m級、90m級、団体と、見事に3冠を達成しました。そのシーンは何度もリプレイされ、このカルガリー五輪が、正に『ニッカネンの大会』といってもおかしくない雰囲気になっておりました。

 


1988 Olympics Large Hill - Matti Nykänen

 

しかし彼は当時から素行の悪さでも有名でして・・・ 特に酒乱の気がありました(寒い地域のスポーツ選手は酒で身を持ち崩すパターンが多い)。現役中も酒による乱暴沙汰でチームを追放されることしばし・・・

2002年に「友人をナイフで刺す」という殺人未遂事件を起こして服役することになります。その後もDVなどで世の中を騒がし続け・・・2019年、糖尿病のより55歳の若さで亡くなったという・・・。

www.sanspo.com

僕の青春期の大スターの一人でしたから、やっぱりかなり寂しい思いがしますね。あのカルガリーでの煌めきから30年かあ・・

 

黒岩彰

カルガリーの前の1984年のサラエボ五輪で、絶対的な金メダル候補でありながら惨敗したのが黒岩彰選手でした。そんな彼がリベンジ戦に挑んだのがカルガリー五輪なのであります。黒岩はこの大会でも日本勢唯一のメダル候補選手でありまして、そうであるが故に、 またしても多大なる期待と重圧に襲われていたのでありました。

五輪直前にそんな黒岩選手のドキュメンタリー番組をやっていたのですが、その時の彼の表情は「達観」したというか、悟りを開いた 修行僧のような顔付きだったのです。一緒に見ていた母親などは「この人、笑顔で自殺とかしたりしないかしら」なんてかなり不謹慎な事を言っていて・・・ 僕も「おいおい」と思いながらも、実のところ心配していたのでした。

 

いざ試合

黒岩選手が抽選で引いた競技順は「4組アウトコース」という実に厳しいものでした。 当時は一発勝負で、そもそもカーブのきつい高速カルガリーリンクでは、 アウトコーススタートは圧倒的不利といわれていたのです。 そしてさらにこの競技順「4組アウトコース」は、黒岩選手にとって悪夢だった四年前のサラエボ と全く同じものだったのです・・・なんというゴッドアングル。

そんな考えられる限り最悪の状況でレースはスタートしました。僕も固唾を飲んで 見守ったのですが・・・なん黒岩選手は同走選手にすら負けてしまったのでした。 一発勝負。つまりその時点で金メダルは逸してしまったいう事になりました。 信じられないようなショック。これにはアナウンサーも解説者も、 そしてそれを見ていた日本中の視聴者が「頭真っ白状態」になってしまったのでありました。

 

3位を受け入れられるメンタル

当の黒岩選手はというと、これが全く悪びれる事なく、同走のメイ選手を祝福したのです。そして実に穏やかな表情をしていたのですね。黒岩選手の真意がわからないままレースは終了。黒岩選手は結果3位で棚ぼた的に銅メダルになりました。

 

www.nicovideo.jp

 

しかし 表彰台にあがった黒岩の姿を見て、不意に僕も理解したというか・・・ 結果を素直に受け入れることの出来る気持ち」というもの。きっとそんな感性を、 サラエボ以後の苦しい日々の中で、黒岩選手は自ら養っていったんだろうなと思ったのです。 彼はこの五輪で引退を表明しましたが、なんだかとても感激したというか、 たぶん「銅メダル」というもの中で、僕にとってもいちばん心に残る銅メダルなったのでした。当時はそろそろ受験も見えていた時期でしたので、僕も悔いの残らぬよう頑張らねばと心に誓ったものでした。

 

意外な形で再登場

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・・・で、めでたしめでたしで終わればよかったのですが、その後、2000年に黒岩さん「松坂投手の駐禁身代わり出頭事件」で久々にスポットライトを浴びたのです。全く松坂は何をやっているのだと。俺の黒岩に何をしてくれるのだと 。そんなわけで今話題の松坂投手には、今一度猛反省し、僕の好きな中日で、せめて10勝くらいはしてみろよと言いたいです。はい。

 

伊藤みどり

 伊藤みどり選手がフリーの演技で5種類の3回転ジャンプ (まだトリプルアクセルは含んでない) を全て成功させ、 世界に衝撃を与えたのもこの五輪でした。当時は苦手の規定も順位点に入っていたので、総合順位は5位どまりになってしまいましたが・・・しかしながら、この五輪のリンクを完全に支配していたのは、当時18歳の伊藤みどり選手だったなと断言できるのですね。彼女は僕にとっても将棋の羽生七冠や、競馬の武選手などと並ぶ、同世代のスターの一人でなのであります。

 


伊藤みどり 1988 五輪 LP +インタビュー 日本語

 

そして伊藤選手の凄さを意識した女王カタリーナ・ビット様「誰でも空飛ぶゴムマリより、成熟した女性の演技を見たいはずだわ」という強烈な台詞が話題になったりもしたのです。そしてその発言を「僻み」だとか、 「お前は踊っているだけだ(実話)」だとか、いろいろ反論もあったのですけれど・・・ 僕はなんとなくビット様の気持ちも理解できたのです。もちろん美醜の問題ではありませんよ。

 

 

これは「プレッシャーの無い伸び盛りの若手の演技」というのは、こと五輪の場においては反則みたいなものだろうと。 そういうものと自分の演技を比べないでくれという・・・実際に極限の勝負の場で、デビー・トーマス選手との心理戦に打ち勝ったビット様から感じたのは「私はプレッシャーも打ち破った真の女王なんだ」という誇りでした。なんかそんな姿にも感じるものがあったのです。

 

ちなみにこの五輪で引退 (のちに一度復帰する) したビット様ですが、その後は伊藤みどり選手に対してかなり好意的でありまして、伊藤選手に対して嫌がらせをする者 (伊藤は各方面からやっかまれていた) に対し、激怒してくれたりしたのです。だから結構印象が良かったりします。はい。

 

 

www.koromaro.com


 

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