コロマリズム

売れない彫刻家のサブカル自慢話

ガチンコ、セメント【プロレス不穏試合まとめ】シュート、ブック破り

スポンサーリンク

f:id:koromaro:20200219181043j:plain

 

「プロレスとは『底が丸見えの底なし沼』である」井上義啓(元週刊ファイト 編集長) 

 

 「プロレス」とは原則的に筋書きのある闘いですが、時にはそうではない戦いが出現します。本気でやりあってしまう「ガチンコ」「シュート」「セメント」。何らかのミスにより「決まっている結末」に導かれない「事故試合」。さらには確信犯的な「ブック破り」など・・・それらは【不穏試合】と称され、プロレスファンの間では、そんな「危ない試合」に関する「謎解き議論」が、日々尽きる事がありません。

 

ここでは知る人ぞ知るプロレスマニアであり、さらにはこの「不穏試合」という言葉の生みの親であるコロマロ(実話)が、数々の不穏試合をご紹介していきたいと思っております。

 

※なおこの記事は随時追加更新致します※

 

 不穏試合リスト

 

力道山対木村正彦 

昭和の巌流島 元祖不穏試合 

 

f:id:koromaro:20200401221736j:plain

 

1954年に行われたプロレス日本選手権【力道山対木村政彦】。
木村の前蹴りが下腹部に当たった事に激高した力道山が、張り手の猛ラッシュで木村を完全KOした。

 


1954.12.22 プロレスリング日本選手権 "昭和の巌流島"

 

そもそも引分けになるはずだった試合で覚書も存在しています (とはいえ力道山側の著名捺印はされておりません)。この試合の背景に関しては今も色々な説がありますが、試合そのものは、典型的な「片方がプッツン」したパターンの試合でありまして、個人的に言わせてもらえば、あまたの「陰謀論」はあまりそぐわない試合に感じられます。


動画を見る限り『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』などに代表される「実際に最初から真剣勝負をやれば木村が絶対に勝つはず」というような意見には非常に疑問が湧いてきます。

とにもかくにも二人の体格差がありすぎます。そして不意打ちだという面を差し引いても、木村選手が力道山選手の怒涛の打撃攻撃というものに、本当に全く対応できていないのですね。そのことが強く印象に残るのです。そしてこれを視る限り、もし最初から互いにガチンコでやっても、この力道山選手のラッシュを避けて、木村選手が組み技や寝技に持っていく事は不可能だったのではないかと感じさせられます(実際に木村選手は2度タックルを切られています)。


木村氏の力道山に対する恨みは相当深かったようで、力道山が暴漢に刺されて亡くなった際、木村氏は「私の怨念が力道山を殺したのでしょう」と語ったとされています。

 
ページトップへ

 

 

馬場正平(G馬場)VS ミスター珍

ジャイアント馬場の新人時代

 

f:id:koromaro:20200401221819j:plain


 馬場がまだ本名だった1961年に行われた【馬場正平対ミスター珍】。初戦で失神KOさせられたミスター珍が、再戦で馬場の胸に噛み付き食いちぎるという報復を行った。

 

初戦では新人の馬場選手が蹴りの加減を間違えてしまい、珍選手ががいびきをかいて昏倒し病院送りとなってしまいました。あくまで事故試合だったのですが、先輩の珍選手はそれに怒り、再戦でシュートを仕掛けたという不穏試合の二重構造になっているのです。

この試合で負った馬場選手の傷は生涯消えないものであり、その後のプロレス観に大きな影響を与えたとされる試合です。そして馬場選手の「シューティングを超えたものがプロレス」という基本理念の基にもなっています。

 

ページトップへ

 

 

 ジャッキー佐藤VS神取しのぶ(忍)

フル動画公開で議論再熱

 

f:id:koromaro:20200401222033j:plain


1987年の【ジャッキー佐藤 対 神取忍】。握手から綺麗に始まった試合だが、開始直後から神取がナックルの連打で追い込み、グラウンドでも一方的に関節技で圧倒していった(ジャッキーは一時、試合放棄状態に)。最後は腕がらみで神取が完勝。ジャッキーはこの試合を最後にプロレス界を去っていった。

 


伝説のケンカマッチ 神取しのぶvs.ジャッキー佐藤

 

当時、もともとギャラ問題でもめていた両者でしたが、そんな中で、目の怪我で負傷欠場を訴えた神取選手のことを、「ワガママ」と捉えたジャッキー選手が、その日のタッグマッチにおいて、制裁含みの打撃攻撃を敢行するという事件が勃発したのです。

それにより両者の関係は決定的に悪化しまして、神取選手はフロントにジャッキー選手とのシングルマッチを要求します。そしてそれがすんなり実現してしまったという試合ですね。正直、試合を組んだフロントがどうかしているとコロマロは思います。

 

この試合については「あのおっかないジャッキーさんをやっつけたというのだから、神取というのは凄い奴なんだなと思っていた」と北斗晶が証言しているのも興味深いですね。

 

ページトップへ

 

 

北尾光司VSジョンテンタ

暗黒のSWS神戸大会その1

 

f:id:koromaro:20200401222240j:plain

 

1991年の【北尾光司対ジョン・テンタ】の2連戦の2戦目。試合序盤から不満顔の北尾が喉輪などの危険攻撃を繰り返し、途中からはサミングポーズのままテンタを威嚇。最後は間に入ったレフリーに暴行し反則負けになった。

 


【プロレス】北尾vsテンタ【この八百長野郎!事件】

 

試合後、北尾選手はリング下から「お前なんて八百長じゃねえか!八百長野郎!」とおきて破りのマイクアピールします。それにより北尾選手はSWSから解雇されました。


相撲時代の実績は横綱だった北尾選手の方が、三段目で廃業したテンタ選手よりも圧倒的に上でした。それゆえ、北尾選手からすれば、そんな格上の自分が2連敗するという筋書きはとても受け入れがたかったのです。さらにそのストーリーを書いたのが、同じく相撲出身のカブキ選手だったという事が、この北尾選手の不満をよりいっそう高める要因になりました。


実はこの試合において、テンタ選手はほとんど何もしていないのですが、噂が噂を呼び「日本でとんでもないシュートマッチをした」と、アメリカで一目置かれるようになったらしいですね。

 

※新情報2019.10.13
船木選手のYoutubeによると、試合後のバックステージにSWS田中社長夫人が現れ、「なんなんですかこの試合は?」と文句を言ったところ、北尾選手は「うるせえババア!」と椅子を投げつけて、危うく夫人に当たりそうになったとの事です。やっぱり北尾選手はとんでもないですね。

 

ページトップへ

  

キラー・カーンVS藤原喜明 

テロリスト前年の不穏試合 

 

f:id:koromaro:20200401222407j:plain


1983年の【キラーカーン 対 藤原喜明】。前座レスラーだった藤原が、当時のトップスターだったキラーカーンに関節蹴りなどの危険攻撃を仕掛ける。カーンは全く対処できず右往左往するのみで、その不穏な様子に気がついた長州とマサ斉藤が突如乱入し、試合を強引に終わらせた。

 

藤原選手がテロリストとしてブレイクする前年の話でありまして、いち前座レスラーに対し集団で襲い掛かる維新軍団の様子は、とても不自然なものでした。
これはモンゴリアンキャラでブレイクしたカーン選手が、持ち前のビックマウスぶりで調子に乗っているところを前座の鬼が制裁したとされる試合なのですが・・・

 

実際はカーン選手が他の試合で入場する際に、セコンドの藤原選手が階段を逆さまに取り付けてしまったことがトラブルの発端なのです。

 

カーン選手が「俺に嫉妬してわざとやったのだろう」と暴言を浴びせた事により藤原選手がプッツンし、マッチメイカーだった坂口選手(カーン選手と不仲)に直訴して、この試合が実現してしまったそうです。ちなみに現在は和解しておりまして、藤原選手はよくカーンさんの店に飲みに行くらしいですね。

 

ページトップへ

 

アントニオ猪木VSグレートアントニオ

伝説の密林王をノックアウト

 

f:id:koromaro:20200401222606j:plain

 

1977年の【アントニオ猪木対グレート・アントニオ】。

すでに50歳を超えていた密林王は猪木の試合の動きについていける状態ではなかった。噛み合わない試合展開が続く中、猪木が突如激高し、プロレスの範疇を超えたストンピングの連打で密林王を完全KO。密林王にとって、この試合が生涯最後のプロレスになった。

 


Great Antonio vs. Antonio Inoki

 

アリ戦の負債を支払うのに必死だった時期の新日本プロレスが苦肉の策でひねり出した試合です。サーカスでの怪力自慢が本業だったグレート・アントニオ選手を16年ぶりに来日させ、白髪染めで年齢を誤魔化し蔵前の大舞台で猪木と対戦させたというものです。

そもそもプロレスの出来ないグレート・アントニオ選手相手には、KO決着しかありえませんでした(TVではKO時間当てクイズまで行われていました)。それゆえ結果だけ見ればおろらくは筋書き通りの決着なのですが・・・そのフィニッシュのストンピングは常軌を逸したものだったのです。

色々説があるのですが、映像を視る限り、スムーズなタックルからストンピングの流れ、さらにはリングでの立ち居振る舞いを見ますと、この試合はいわゆる「激昂系」とは違って、猪木選手は最初からハードヒットでKOするつもりだったのではないかと考えられると思います。

 

※新情報(2015年7月12日)
このシリーズ中、アントニオ選手は同時期に来日していたアンドレ・ザ・ジャイアント選手と、何度かトラブルを起こしていた模様です。試合の背景にはそれに対する制裁の意味合いもあるかもしれないですね。

 

ページトップへ

 

 

田村潔司VSゲーリー・オブライト 

第2の前田vsアンドレ

 1995年の【田村潔司 対 ゲーリー・オブライト】。入場時に椅子を投げ入れるという、いわゆる「U系」に有り得ない行動をしたオブライトが、そのまま試合でも相手の田村にセメントを仕掛けた試合。

 

f:id:koromaro:20200401222733j:plain

 

オブライト選手の「ブック(プロレスの試合の筋書き)通りの試合はしない」という強固な意思を感じ取った田村選手は、そこからキックを主体に猛反撃します。スタミナ切れしたオブライト選手は打つ手が無くなり試合放棄状態に。最後はスリーパーで田村選手が勝利しました。

当時のUインターはオブライト選手に見切りを付けておりまして、この試合も田村選手が勝利する予定でしたが、プライドの高いオブライト選手がジョブ(負け役)を拒否します。それゆえに結局セメントマッチになってしまいました。試合後、勝った田村選手はリング上で涙し、試合をまとめきれなかった和田レフリーも控え室で号泣したそうです。それまで水面下だったUインターの内部崩壊が表沙汰になった試合でした。

  

ページトップへ

 

 ブルーザー・ブロディVSレックス・ルーガー

大物同士の海外不穏試合

 

f:id:koromaro:20200401222953j:plain

 

1987年の【ブルーザー・ブロディ対レックス・ルガー】。米マットで人気のゲージマッチで行われた試合だが、試合途中からブロディが謎の無気力ぶりでルーガーの攻めに反応せず、困り果てたルーガーがレフリーに暴行する形でとっとと試合を終わらせた。ルーガーは試合後シャワーも浴びず帰路へ。この試合を最後にフロリダNWAを離脱した。


Luger vs Bruiser Brody Cage Match Shoot

 

キャリア的には当時のルーガーは新人のカテゴリーに含まれる存在でしたが、バックステージでは大卒のインテリとして、大先輩のフレアーにも臆せずに意見するようなタイプだったらしいのです。それゆえブロディとの関係については、そのあたりを発端とするような様々な憶測がされているのですが・・・こと実際の試合の映像を見る限り、実はそういう難しい背景の試合ではなかったのではと思われるのです。

 

ずばりこの不穏試合の原因は「試合中盤のフェンスへの叩きつけの際に、誤ってブロディの顔が固いフェンス部分に当たってしまった事」だと思います。

 

それ以後、明らかにブロディがセル (相手の技に対するリアクション) をしなくなるのです。

 

この後、クロケットプロ入りしたルーガーは、ここから出世コースに乗ってWCWの王者に君臨する事になります。一方のブロディは翌1988年、プエルトリコでホセ・ゴンザレスに刺殺される事となました。この試合はそんな両者の一瞬のすれ違いでした。

  

※新情報(2019年7月12日)
ルーガー自身がこの試合についてインタビューで語っております。


Lex Luger on Bruiser Brody Incident

 

ページトップへ

 

 前田日明VSアンドレ・ザ・ジャイアント

不穏試合の代名詞

 

f:id:koromaro:20200401223427j:plain

1986年の【前田日明対アンドレ・ザ・ジャイアント】はプロレスのシュートマッチの代表格とされる試合。冷たい表情のアンドレに異変を感じて途惑う前田。アンドレは一切のセルを拒否し、いざ組んでからも、全体重をかけた押しつぶし、首折、喉輪、サミングなどの危険攻撃を繰り返した。藤原の「潰されるぞ」の声に腹を決めた前田がスイッチオン。関節蹴りや、膝狙いのローキックを繰り返し、最終的にはアンドレを戦意喪失に追い込んだ。

 


Andre the Giant vs Akira Maeda


もともとはアンドレ選手が18文キックからのヒッププレスで勝つと予定されていた試合で、前田選手もそれを了承していました。試合拝啓については様々な陰謀論が出ていますが、近年の研究では「酒に酔ったアンドレ選手の単独犯行」で、ほぼ間違いないとされています。

当時、新日に参戦していた外国人選手から「あいつはセルしない」「危険な攻撃を入れてくる」「へたくそで危なっかしい」と、前田選手の評判はとても悪かったのです。それを聞いたアンドレ選手が、外国人のボスとして「前田選手を懲らしめてやろう」とシュートに走ったという話であり、そうであるとすると全ての謎のつじつまが合ってくるのです。

しかしながら、この試合に対する外国人選手の意見は、我々の認識とは全く異なっており「前田は前々から名前を挙げようとシュートのチャンスを狙っていた。あの日のアンドレは体調がすごく悪かったので、それを知った前田が仕掛けたのさ」というマスクド・スーパースター選手の証言には驚かされます。そしてそこからは、当時の新日本体、UWF、そして外国人軍団の3グループが、それぞれがそれぞれに対し、大きな疑心暗鬼に駆られていたことが伺えるのです。

 

※新情報(2016.4.27)
前田氏の新たな証言「徳島の試合でアンドレが猪木さんとの試合前に飲みすぎてコントロール不能になり、しまいには阿波踊りを踊りだしてしまった。それで困った猪木さんは他の外人選手を乱入させて強引に試合を終わらせたということがあった。それを見ていたからこの試合もそういう風になるのかなと結構冷静に考えていた」

  

ページトップへ

 

スーパー・タイガーVS前田明(日明)

旧UWF崩壊の象徴 

 

f:id:koromaro:20200401224124j:plain


1985年の【スーパータイガー 対 前田明】。旧UWF最末期の不穏試合。仕掛けたのは前田で、通常とは異なるガード主体の構えから、強烈な張り手やローキックで序盤からスーパータイガー(佐山)を追い込んでいく。スーパータイガーもなんとか試合を立て直そうとするも、頑なな前田の心を動かす事はできず、結局、自らレフェリーに金的攻撃を訴え(本人曰く「当たってません」とのこと)、反則勝ちで試合を終わらせた。佐山はこの試合を最後に旧UWFを離脱し、それにより旧UWFは自主興行団体としての活動を終えることになった。

 

www.nicovideo.jp

 

当時の佐山選手は、このUWFを「エンタメ性の強いプロレス」から「真剣勝負のシューティング」へ移行させる事に集中していたのです。しかしながら理想を急ぐあまりの彼の強引な手法に、他選手は拒否反応を示しました。さらにはUWFと新日本との合併話も持ち上がっていった最中の事で、双方の間の溝は埋めようがないものになっていました。

 

それゆえこの試合は「プロレスのシュート化をやめさせるべくシュートを仕掛ける前田」と「シュートになりつつある試合を『これはプロレスだぞ』と諭す佐山」という、実に奇妙な不穏試合になっているのです。

 

※新情報(2015年7月12日)

上井文彦氏の証言によると、この試合の2ヶ月前の両者の対戦(映像資料なし)も不穏試合だったそうです。そして当時、前田選手にシュートを炊き付けていたのは、フロントの伊佐早敏男氏(故人)だったと断言もしています。

 

ページトップへ

  

橋本真也VSヒロ斉藤

破壊王 若き日の暴走

1987年の【橋本真也対ヒロ斉藤】。当時のヒロ斉藤は長州軍団の切り込み隊長であり、いち新人レスラーの橋本よりもあきらかに格が上だった。しかし格下の橋本が斉藤の攻撃を全く受けず、そればかりか手加減無しの打撃やグラウンド攻撃を繰り返すという暴挙。それにより最終的に斉藤が手の甲を骨折してしまったという試合(試合はセントーンで斉藤のフォール勝ち)。

 

f:id:koromaro:20200401224236j:plain

 

当時は全日本から長州軍団が新日本へUターンしてきた直後でした。当然、その出戻りを歓迎しない人間も多かったわけです。そんな中、ベテランの荒川真が若くて一本気な橋本を焚き付けた・・・というのが通説になっています。

橋本の掟破りに対する長州軍団の怒りは凄まじいものがあり、試合後の控え室では長州とマサ斉藤が橋本を制裁しました。そのことを逆恨みした橋本は、しばらくの間、復讐するための刃物を隠し持っていたという話です。

※新情報(2016年4月14日)
ヒロ斉藤選手本人の証言によりますと、当時は新日マット全体がハードヒットだったため、この時に「仕掛けられた」という意識は全くなかったとの事です。それゆえ骨折させられた橋本選手の蹴りも「自分が受けそこねたゆえの事故」だと思っていたそうで、橋本選手が控室で制裁を受けた事を後で知って驚いたとのこと (斉藤選手は病院で手の治療していた)。

 

ページトップへ

 

アントニオ猪木VSパク・ソンナン 

1976年のA猪木その1

 1976年【猪木VSパクソンナン】。韓国プロレス協会がアリ戦で知名度が上がった猪木を招聘し実現した試合。この試合で凱旋帰国したパクに箔をつけ、韓国プロレスを盛り上げようというのが目的だった。

韓国側は二連戦のうち、一試合は花を持たせてもらおうという魂胆だったが、猪木は拒否。大邱の試合でシュートを仕掛けパクをリンチ状態に。その影響で翌日のソウルでの試合では、怖気づいたパクが試合開始になっても登場せず、結局、無気力試合であっけなく敗北。試合後会場では暴動が起こった・・・というのがこれまでの定説であった。

 

f:id:koromaro:20200401232540j:plain


そもそも猪木選手は最初からこの興行に乗り気ではなかったのです。しかしながら『アリ戦の借金返済』&『韓国と日本の大物プロモーターの顔を立てる』&『当時の韓国の大統領の朴正煕がプロレスの大ファンだった』という3つの理由により、結局韓国遠征が実現する事になりました。


2試合中、不穏試合は大邱での初戦でした。これは勝敗の交渉がまとまらないうちに試合開始時間になってしまい、猪木選手がプッツンしてしまったというものです。経験の浅い韓国セコンドは「セメントだ!」と空気を読まず盛り上がりましたが、あくまでパク選手自身は「プロレスはプロレス」という大人のスタンスであり、試合も同様のファイトマナーでした

しかし試合は『ナックルが顎に入った』という猪木選手の言いがかりのようなシュート宣告 (猪木選手の師匠である力道山の木村戦に酷似) により、実に陰鬱なものになってしまいました。

バックマウントからのフェースロック(プロレスはマウスピースを着用しないため口内がズタズタになる)から脊髄へのエルボー&背後からのサミング、さらには肛門に指を突っ込む(※坂口証言)という攻撃にパク選手は戦意喪失します

 

試合をさばいていたミスター高橋氏が猪木選手にやりすぎを警告しますと、猪木選手は「うるさい!ガタガタ言うとお前も潰すぞ!」と言ったそうで、高橋氏は「この人は〇いすぎていて手が付けられない」と感じたそうです。

 

そんなわけでこの試合は一方的に猪木選手が攻めたままノーコンテストに終わりました。

 

そしてここからが定説と異なる部分なのですが、実は猪木選手はこの最初の試合後、パク選手に対して自身のやり過ぎを詫びているのです。それに対してパク選手は謝罪を受け入れ、翌日の試合をやる方向で話はまとまったとのこどです。

 

そして翌二戦目。前日の経緯もありパクサイドは「今回の試合はパクの勝利。どうしても駄目なら両者リングアウトの引分け」という要求をするのですが、しかし猪木選手はそれを断固拒否したのです。韓国では試合が生中継されていたこともあり、パク選手が最後には「じゃあリングアウト負けならジョブしよう」と、自分の敗北を受け入れたというのがこの2連戦の真相らしいですね。

  

ページトップへ

  

鈴木みのるVSアポロ菅原 

暗黒のSWS神戸大会その2 

 

f:id:koromaro:20200401225629j:plain


1991年の【鈴木みのる対アポロ菅原】。SWSと藤原組の対抗戦に組み込まれた試合。活きの良い若手の鈴木が、何故かベテランのアポロとする事になり、案の定、不穏試合になった。

一貫して、手四つを誘うアポロに対し、鈴木は掌低の構えを崩さず試合は平行線の様相。時折顔面にヒットする鈴木の掌低に露骨に嫌悪感を示すアポロ。その後、ロープ際で揉み合った際に両者はなかなか離れず、それを振りほどいた鈴木が再び掌底をヒットさせるとアポロはリングを降り、試合放棄裁定が下る。

試合後鈴木は号泣。アポロはリングを降りただけの自分を負けにしたレフェリーに抗議するという、実に後味の悪い試合となった。

 


プロレス不穏試合 鈴木みのる 対 アポロ菅原


「船木さんは佐野さんなのに俺なんてアポロだよ」という発言が物語るとおり、当時の鈴木選手は藤原選手はおろか、天龍選手の言うことも聞かないくらい生意気だったとのことです。さらにはUWFスタイルも曲げようとしないため、そんな鈴木選手の相手を買って出る選手は、SWSには皆無でありました。それゆえマッチメーカーのカブキ選手が独断でこのカードを決めてしまったとのことです。 

(アマレスの実績やこのカードそのもの影響で、一部でアポロ菅原選手を“シューター”とする向きがあるが、多くの証言からそれは全くの幻想だということが解る) 


試合そのものは「佐山対前田」のような、典型的な「疑心暗鬼試合」でありまして、それゆえ「決定的に危ないシーン」というものは見受けられないのです。一説には「アポロが指折りをした」という話もあるのですが、ビデオを視る限り、それはそう証言した鈴木選手の誤解だと思います。

最後はアポロ選手が「鈴木の打撃は見逃すのに、俺がナックルの構えをしたら一瞬で反則を取った。そんな不公平な試合には付き合いきれない。そもそもSWSルールなのにリングを降りただけで負けにするなんておかしいじゃないか」という理屈をもって試合を終わらせました。

しかしその後、アポロ選手だけに罰金を科せられたことを考えますと、そもそもこの試合は鈴木選手が勝つ予定で、いわゆる「ブック破り」をしたのはアポロ選手の方ではないかと推察されるのです。

そんなわけで藤原組参入による不穏な空気から大荒れになったSWS神戸大会でありましたが、実は生意気盛りの鈴木選手本人がその空気に呑まれて「ビビッていた」そうなのです。

それゆえ鈴木選手もアポロ選手同様、中途半端な試合対応になってしまい、そのことを試合後カールゴッチ氏や藤原選手から叱責されたそうです。そんなわけで疑心暗鬼の中途半端試合。それゆえ本人達の証言も噛み合うことなく、様々な人が様々な解釈をいまだに論じている試合であります。

 

ページトップへ

 

 藤原喜明、星野勘太郎VSヘラクレスローンホーク、寺西勇

一杯食わせ者の末路

 1983年の【藤原喜明、星野勘太郎VSヘラクレスローンホーク、寺西勇】。新日本プロレスクーデター事件直後に行われたブラディファイトシリーズの不穏試合。

新体制シリーズの目玉になるはずだったヘラクレス・ローンホーク選手。しかしこれがとんだ一杯食わせ者。筋骨隆々の見た目とは裏腹に、攻めも受けも何もかもが未熟で、しかも「頭が本当にからっぽ」(ミスター高橋談)なので、前座試合に組み込むことすら困難という有様。最後はあからさまな制裁マッチで星野に殴り倒され試合放棄。ペイデーを待たずに途中帰国した。

 

f:id:koromaro:20200401225726j:plain


時は例の1983年です。クーデターにより猪木選手と坂口選手と新間寿営業本部長を失脚させて、マッチメイクの権限を掌握した選手会&新役員軍団でしたが、猪木選手の新マッチメイカーへの協力拒否とヘラクレスローンホーク選手の大コケにより、新体制シリーズはガタガタになってしまいました。選手会はあろうことか追放したはずの坂口選手に泣きつき、マッチメイカーに戻ってもらうことになりました。

そんな坂口選手が最初に手掛けたのが駄目ガイジンへの制裁でした。

試合でシューターの藤原選手に蹴りまくられ、さらには星野選手のナックルパンチで顔面に青タンを作ったローンホーク選手は、そのまま控え室に逃げ込み試合放棄しました。

 

控え室で「警察に訴えてやる!」と泣き叫んでいるローンホーク選手に対して、その場にいたディックマードック選手が「日本の警察だから行ってもムダだ。行くならアメリカ大使館にしろよ」とからかったのですが、ローンホークはその言葉通り、本当にアメリカ大使館に逃げ込んでしまったのです (当然門前払い) 。しかも「試合放棄はプロレスの掟破りだから追放」という無茶な理屈で、新日本からギャラが満額払われることは無かったという・・・まあ、あの頃の新日本と言うか、なかなか酷い話ですよね。

 

ページトップへ

 

 高田延彦、山崎一夫VS小林邦明、保永昇男

確信犯山崎の最後っ屁

 1988年の【高田延彦、山崎一夫 対 小林邦明、保永昇男】。この試合を最後に新日本を離脱することに決めていた山崎が、それまでの経緯への不満から「最後は好きなようにやってやろう」と確信犯的に小林に喧嘩を吹っ掛けた不穏試合。


試合開始直後、手四つからの前蹴りを投げ飛ばされた山崎は、あからさまにふてくされた態度をとり、「ロープに押し込まれてからの張り手へのセル」を拒否する。むきになって張り手をする小林に山崎はスイッチオン。ノーガードの相手にハイキック→マウントパンチ。ただならぬ雰囲気にタッグパートナーのみならず、レフェリーやセコンドも総出で二人を分ける。

 

興奮する山崎を高田が何とかなだめようとするも、相手の小林は納得せず、その後も試合不成立スレスレの両者の攻防が続く(その都度高田が割って入る)。
試合は高田が保永を抑えて終了するも、山崎はその後もふてぶてしい態度で小林を挑発し続け、「前田が泣いてるぞ!」という、どこかで聞いたことがあるような客席のヤジが飛ぶ中、両者は控室に戻っていった。

f:id:koromaro:20200401225816j:plain


試合の映像を視ますと山崎選手の幼稚さ  (に対して高田の大人ぶり)  が目に余ります。一方の小林選手は、そんな山崎選手に対して正に一歩も引かない態度だったため「不穏試合を仕掛けられた人間」側では珍しく株が上がった印象がします。

 

この試合について評論家の菊池孝氏は「何の非もない好漢・小林に対して新生UWFへの移籍を決意した上で最後っ屁をかました山崎は人間として最低!」と山崎選手を断罪しています。

 

そして山崎選手自身も「当時は自暴自棄になっていて八つ当たりだった。小林さんはとんだとばっちりで本当に申し訳のないことをした」と著書の中で謝罪しています。

 

ページトップへ

  

 芳の里淳三VS市川登

「潰せ!」とシュート命令

1954年の【芳の里淳三 対 市川登】は「力道山VS木村」の前座で発生したもう一つの不穏試合である。芳の里が不意打ちで張り手を数十発乱打し、ワンサイドで市川を昏倒させた。市川は打撃によるダメージで脳に障害が残りプロレス界を引退し、その後、1967年に静養先の故郷の沼津で永眠した。

 

f:id:koromaro:20200401225909j:plain




恐ろしい事に試合前、芳の里選手は力道山選手から「市川を潰せ!」と命令されていたとのことです。柔道家でもあった市川選手ですが、圧倒的な体格差に加え、相撲とボクシングの心得がある芳の里選手から、掟破りの不意打ちを食らってしまっては、ひとたまりもありませんでした。

市川選手はプロ柔道が母体である全日本プロレス協会所属の選手であり、その彼と相撲出身の芳の里選手が対決するというのは、仮想「力道山VS木村」とも言えるものでもあったのです。

力道山選手の芳の里選手へのシュート指令については「力道山選手からの木村選手への宣戦布告」とする向きがありますが、個人的にはそれとは逆で「力道山からの木村選手への警告」という感じがします。

要は「今日はやってやるぞ!」ではなく「変な事をするなよ」ということです。そして木村選手はこの時点でもっと試合に対して敏感になるべきだったとも思っています。

 

ページトップへ

 

 

馬場、ドリー、田上 VS 鶴田、三沢、秋山 

今さらギャラアップ?勘違いへの制裁

 

f:id:koromaro:20200401225940j:plain


1996年のジャイアントシリーズで「全日本プロレス創立24周年記念試合」として行われた【馬場、ドリー、田上 対 鶴田、三沢、秋山】。

 

最初の絡みで、秋山と三沢が連続してドリーに強烈なエルボーを叩き込み、ダメージを受けたドリーはたまらず場外にエスケープしたという試合。

記念試合らしからぬ「老人いじめ」のような秋山と三沢の攻撃が長年謎とされてきたが、G+のファンクス特集において「ドリーのギャラアップ要求に対する制裁だった」という真実が明かされた。

 


ジャイアント馬場/ドリーファンクJr/田上明vsジャンボ鶴田/三沢光晴/秋山準96'G.Baba/Dory Jr/A.Taue vs J.Tsuruta/M.Misawa/J.Ak

 

90年代半ばのドリー選手は衰えが激しく、馬場夫妻としては一線級(当時は四天王プロレス全盛期)ではなく「功労者」として、なかば義理で来日させていたのですが、そんな中でのドリー選手のギャラアップ要求は「勘違い」としか言いようがなかったでしょう。それゆえ「じゃあ一線級の攻撃を入れてやれ!」という制裁指令につながっていったと推測できるのです。

 

ちなみに長年続いていたドリーの来日もこの時をもって途絶えることとなりました。

 

ページトップへ

 

 

北斗晶VSイーグル沢井 

LLPWの全女潰し

 

f:id:koromaro:20200401231744j:plain


 1994年の【北斗晶VSイーグル沢井】。女子プロレスの対抗戦の総決算であった同年の東京ドーム大会『憧夢超女対戦』。その目玉企画であった『V★TOPWOMANトーナメント』の一回戦で行われた。

常識的に考えて北斗の勝ちは動かないと思われた試合だったが、体格差に勝るイーグルが、試合開始直後にランニングパワーボムから全体重をかけたエビ固めを極め、シュートにフォールを取りに行った。北斗はかろうじてそれをキックアウトするも、その後もイーグルが体格の差を見せつけるような展開が続き(イーグルは北斗の必殺技であるノーザンライドボムも一度キックアウトした)、ドームがどよめく中、最終的には北斗が勝利した。

 

www.nicovideo.jp



この頃の全女とLLPWは、フロントレベルでのトラブル(松永兄弟VS風間、神取)や、LLPW駒沢大会時のファイティングマナー問題(アンダーカードにおいて多くの全女選手がLLPW若手選手の技を受けず秒殺した)など、ぎくしゃくした遺恨を抱えておりました。

それに加え、このドーム大会当日のバックステージにおいて神取と北斗が偶然鉢合わせしてしまいます。そこでこれまでの北斗の言動(行動)をとがめた神取が北斗を殴打するという事件が勃発してしまいます。

それにより両団体の信頼関係が完全に喪失し、風間と神取から、北斗と対戦するイーグルに対し「ブック通りの動きの中で完全にスリーカウントを奪う」というシュート(事前に練習済み)にゴーサインが出されました。

しかし実際にはイーグルが非情になり切れず北斗を逃してしまったため(優しい性格だったことに加え、女子プロドーム興行を壊す行動にためらいがあった)、指令を出した神取は不満をあらわにしていたとの事です。

この興行を最後に、女子プロの対抗戦ブーム&特需は沈静化していく事になりました。

ページトップへ

 

 

※次回は「ジャイアント・グスタフ事件」を検証※


TOP